別名は霞ヶ城
福井県坂井市にある丸岡城に行ってまいりました。丸岡城の別名は霞ヶ城。この国宝の石碑は1934年(昭和9年)旧国宝保存法により国宝に指定されたのを記念して1942年(昭和17年)に建てられました。その後、お城は1948年(昭和23年)に福井大地震で倒壊。1955年(昭和30年)に再建されました。1950年(昭和25年)に現行の文化財保護法により重要文化財に指定されています。
お天守前公園から見た丸岡城の天守。実はこの反対側には駐車場があり、おそらく大多数の方はそちらに車をとめて丸岡城を観光されると思います。私は単にお城を見つけて入って行ったという感じだったので少数派でしょう。ただ、ここからの天守は絵になるので個人的にはオススメのルートでもあります。
こちらの坂道を登っていざ本丸へ。
その途中にあった牛ケ島石棺。旧丸岡町牛ケ島の東にあった古墳から出土したと伝わっているそう。くり抜式舟形石棺という形です。
本丸
こちらが丸岡城の本丸。もう天守が見えています。
1576年(天正4年)に柴田勝豊によって築城された丸岡城。柴田勝豊は織田家の重臣、柴田勝家の甥にあたります。織田信長は1575年(天正3年)に越前の一向一揆(浄土真宗本願寺派の信徒が起こした一揆)を平定。その時に活躍した柴田勝家に恩賞として越前国を与え、勝家は北ノ庄城を築城します。勝家は甥の勝豊を豊原(丸岡)に派遣し、丸岡城を築城する流れとなりました。
天守のそばにあるお静慰霊碑。築城時に石垣が何度積んでも崩れる箇所があり、人柱の意見が出ました。その人柱に選ばれたのが二人の子をかかえた片目の女性、お静。子供の一人を侍に取り立ててもらうことを条件に人柱になることを決意します。そして天守の中柱の下に埋められました。そして天守は無事に完成。しかし、柴田勝豊が他の地に転封となったため、子供は侍になれませんでした。その後は年に一度、藻刈りの4月になると大雨が降りお堀の水があふれるようになります。人々は”お静の涙雨”と呼びお墓をたててお静の霊をなぐさめました。
天守の入口の脇にある石製のシャチホコ。丸岡城のシャチホコはもともと木彫銅板張りでしたが、1940年(昭和15年)からの改修で石製になりました。当時は戦時中で銅が貴重であったため石を使ったそうです。しかしそのシャチホコも1948年(昭和23年)の福井大地震で落下。現在のような姿になってしまいました。
天守のそばにあったお社。
その辺りから見た天守。
こちらも天守のそばにあった石碑。詳細は不明です。
伝説が残るこちらの井戸。豊原(丸岡城のすぐそば)は越前の一向一揆の本拠地であり、柴田勝豊が丸岡城を築城している時にも残党が攻撃をしていました。しかしそのたびにこの井戸から大蛇があらわれ、城に霞をかけてお城を救ったとか。そこから丸岡城は別名、霞ヶ城と呼ばれるようになりました。また実際に今でも春先ではお城が霞に覆われることがあります。
こちらは丸岡城八幡神社。築城当時からあるそうです。
八幡神社から見た天守。
天守
それではいよいよ天守の中に入ります。現存する天守のなかでは最も古いといわれる丸岡城。二重三層(屋根が2つで3階建て)となっています。
天守の一階。様々な資料が展示されています。
一階の武者走り。
武者走りとは城壁の内側に設けられた通路のこと。
有事の際にはここを侍が走り回ることからこの名で呼ばれます。
こちらは石落とし。石落としとは建物の一部をせりだして、そこから侵攻してくる敵を攻撃する防御設備です。だいたい足元にあることが多いんですが、丸岡城はまるで窓のような場所にありました。
こちらは狭間。鉄砲や矢を射るため窓で、鉄砲狭間や矢狭間、(石を投げるための)足駄狭間などの種類があります。漆喰の壁で城壁側が狭く内側は広くなっている狭間はよく見ましたが、こちらはまるで普通の格子窓のような形状。さすが現存最古の天守ですね。古風な形なんでしょう。
一階の天井。
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